映画について私が全然知らないいろいろな事柄

@ohirunemorphine が、だらだらと映画についてあれこれ考えます。

『クリシャ』勇気ある配給さんと勇気ある劇場さんのタッグで上映されてる映画について書きました。

  繊細すぎる人間は生きているだけで世界に棘刺され、ひび割れささくれだった殻は触れるものをガラスの破片のように傷つける。

「世界」とは彼女を無条件に痛めつけてくるものであり、また彼女も「世界」に棘を刺しながら生きてきた。

 しかし、そんな彼女はどのように決して短くはない60年以上の年月をやり過ごしてきたのだろうか。

 アルコールに溺れ、家族から離れ、しかし必死に自制し、やっとの思いで戻ってきた彼女。

 普通の日常を営む家族--クリシャが捨ててきた、故に罪悪感と渇望の対象であろうもの--

 それらによって掻き乱される彼女の神経が、刺さるような音と眩暈を催すような映像によって表現される。

  彼女が生きる不穏な世界。

『クリシャ』ロードショー復活!のご報告 – Gucchi's Free School(グッチーズ・フリースクール)

 

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 「シラフでいることが辛い」それを紛らわすためにアルコールやドラッグに依存することは法的または道義的にどうあれ、実際にそうしないと自己を保つことができない人は多かろう。そういった人物像は数々の映画や文学に描かれてきた。

 繊細すぎる人間にとっては、薬物に苦しめられるのと同様に、シラフで日常と対峙するのもまた同じような苦しみである。酩酊した視界に映る歪んだ景色と、クリーンな意識に映る不快な景色。苦しみと苦しみを天秤にかけ、おそらくクリシャは後者を選んだのだろう。

 クリシャは耐えてきた。しかしそれは「家族」から離れたからこそ耐えられるものだったのかもしれない。彼女がその間どう生きてきたか、「必死で生きてきた」としか語られない。ただひとり世間に置かれた彼女は、ある意味で「関心を持たれることなく」生きてきたのであろう。しかし、ひとたび誰かと関わると、相手を傷つけずにはいられない彼女は、ひょっとしたら何かから逃れるように「家族」のもとに吹き戻されてきたのかもしれない。

そして、彼女の「家族」の記憶は、孤独の中で美化されていたとしたら。その中で浮き上がっている自分に気がついてしまったとしたら。

 

・もっとも、シラフで日常と対峙している人間も確実にいるわけで、例えばそれはクリシャの妹の夫がそうであろう。

アルコールと薬物によって家を出たクリシャを一方的に糾弾し、もう立ち直るには遅い、と言い放つ。彼は「保護犬を迎えるのが趣味の妻」にうんざりしつつ、やかましい家族の中でなんとかやっているのである。それが生活である、というように。

クリシャは作ったような苦笑いで応じるが、おそらく彼女はそういった正論に散々傷つけられてきたのであろう。正論とは暴力である。そして世間は暴力で出来ている。

しかし、「繊細だから」と開き直って気遣いを求めるのもまた暴力である。価値観と生き様が異なる者たちのぶつかり合い、それがたまたま「感謝祭」という大事な行事に被ってしまったことが、滑稽にも思える悲喜劇を巻き起こす。

感謝祭に一族が集まるということは、おそらく日本的な感覚では盆や正月に親戚一同が顔を揃えるようなものだろうか。その中にはひとりくらい、はみ出し者、持て余されている者がいるだろう。

普段疎遠なその人とどう接するか。

どうしたって「上っ面」でしか接することはできないのだ。それはそうだろう。その家の日常は彼(あるいは彼女)の不在が前提であり、彼(あるいは彼女)は闖入者に過ぎない。血が繋がっていればこそ余計厄介だ。受け入れる側としてはこの招かれざる客をどうもてなして気分良く帰ってもらうかに気を割かねばなるまい。まことに迷惑である。

しかし、かの闖入者本人は、平穏を求めて帰ってくるのである。そしておとなしく、常識的に振る舞うのだ。所在なさげに。なんなら「お役に立てますよ」と、控えめな主張を見せようとすることもあるだろう。

 

彼女の居心地の悪さは実に巧みに表現されている。

思考と会話を遮る犬の吠え声、やかましく何の役にも立たない男たちの馬鹿騒ぎ、皿が落ちる音、テレビの音、ミキサーでかき混ぜられる謎のゲル状の物体。全ての要素がクリシャの神経を苛立たせる。しかし、辛くとも我慢せねばならない。受け入れられるためには。

まさに「お役に立てますよ」と、クリシャは感謝祭のローストターキーを作ることによって「家族の一員」であることを主張しているようにも思えるが、それを見ている甥っ子だか何かの顰めっ面は、グロテスクな七面鳥の下拵えを見ての反応か……いや、それをやってのけるクリシャそのものがグロテスクな存在なのだ。この、魔女のような風貌の、指先が欠損した女。まるで大鍋で怪しげな薬を錬成しているかのような女が、平和なご家庭のキッチンで何やらこね回している。しかし、クリシャは必死だ。焼き上がりのタイマーがどこかに行ってしまっただけで空間が歪むような感覚を覚えるほど。

感謝祭のローストターキーとは、正月のおせち並みに重要なものなのだろう。しかしなぜ、クリシャはひとりでは持ちきれないほど重たいローストターキーを、自力で持ち上げようとしたのだろうか? そこに無駄にたくさんの人がいたのになぜ助けを求めなかったのか? または、なぜ誰も助けようとしなかったのか? 決定的に彼女の「居場所」はない。家族から受け入れられないという辛さを紛らわすために、禁じていたアルコールに手を出してしまった彼女。

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この酩酊のなかで「最大のご馳走」を運ぶクリシャの(おそらく心理的な表現でもあろう)シーンは、ため息が出るほど美しい。血液を流れるワインは、彼女のささくれた神経を宥め、世界は一気に拡がりをみせる。この高揚感。

そして、自分は、優雅に誇らしげに、ご馳走をお披露目するのだ--お待ち遠さま、どうぞ、召し上がれ。

 

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しかし彼女はそう出来なかったこんがりと焼けた巨大なローストターキーは酩酊した彼女には文字通り荷が重すぎた。断っていたアルコールを口にしてしまっていたことがバレる。が、家族にとってはそれ以上に、ローストターキーをダメにしてしまったということの方が罪深い。

一気に世界は縮む。

 

それまで良き理解者の顔をしていた姉だが、そこからモザイクのように、取り繕った顔を見せる場面と妹を罵倒し侮辱する場面が複雑に絡み合い続く。姉にとって、妹とローストターキー、どちらが大事なのか? どう見ても後者である。家族の中でローストターキー以下の存在であることに気づいたクリシャ。その絶望たるや。

怪物と化した闖入者。

 

冒頭にこちらを見据えていた、鬼気迫る顔。

そして、全く同じ顔なのに、魂が抜けたような顔。

 

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・クリシャはアルコールと薬物の依存症のために人間関係を壊し、家を出たとされる。

 この設定はトレイ・エドワード・シュルツ監督自身が抱えていた家庭問題--アルコール依存症の父と、家族とうまくいっていなかった親戚の物語を基として、ほぼ親族と友人たちによって演じられたという。つまり、身内の問題を自分たちで演じたということである。

 依存症というものは厄介だ。クリシャは「克服した」と思いこんでいたが、トリガーとなる事態が偶々起きなかったか、巧みに避けていたかのどちらかであろう。度々薬を飲む場面があるが、おそらく処方された精神安定剤だと思われる。アメリカの精神安定剤がどの程度の強さでどの程度アルコールと相性が悪いのかはわからないが、クリシャはアルコールの代わりに「精神安定剤依存症」に陥っているのだろう。どちらにしても依存には変わりはない。

 依存症に陥っている者を「弱い」と責めることはできない。それは複雑な要因からそうならざるを得ない、もしくは「そのように脳の回路が出来てしまった」からであり、本人の意志が弱い、だらしない、というわけではないのである。「シラフで世界と対峙している」人は誤解しがちだが。そして本人もそう思い込みがちである。

 「酒をやめた」と豪語する元アル中が水と間違えて酒を飲んでしまい、それがトリガーとなって再びアル中へと逆戻り、という話はよくあるそうだ。それまで耐えていた、という糸がプッツリと切れてしまい、あとは元の木阿弥。

 クリシャのようなケースは実によくあることなのだ。

 このような家庭の問題は、実によくあることなのだ。

 

・3度目の緊急事態宣言下、渋谷ユーロスペース様が営業を決定し、この作品の上映も続けられるとのことで、この文章を公開することができました。作品そのものも公開に至るまで大変な紆余曲折があったと伺っており、関わる皆様の勇気と英断に大変感銘を受けております。しかし、遅筆な私の原稿は公開までに間に合わず、そうこうしているうちに緊急事態宣言が発令され、これアップしてもどうなんだろうなぁ……と思っていたところでした。

もともとゴールデンウィークとは映画文化から発祥したものです。昨年に引き続き今年も……ということになってしまったら、全くなんというか

 しんど過ぎます。

 

耐えましょう! そして声をあげ続けましょう。

映画は、必要です。

 

『クリシャ』

原題 : Krisha

アメリ/2015/83/アメリカン・ビスタ&シネマスコープ&スタンダード

製作・監督・脚本・出演 : トレイ・エドワード・シュルツ

製作 : ジャスティン・R・チャン ウィルソン・スミス チェイス・ジョリエット

製作総指揮 : ジョナサン・R・チャン JP・カステル

撮影 : ドリュー・ダニエルズ

音楽 : ブライアン・マコーマー

出演 : クリシャ・フェアチャイルド ロビン・フェアチャイルド ビル・ワイズ クリス・ダベック オリヴィア・グレース・アップルゲイト

 

ユン・ダンビ『夏時間』書きました。

めっちゃブログ更新のろいですよね

 

最近どうも色々厄介なことばかり起きて

根詰めて文章かくのがむずかしかったのです。

 

そういうままならぬ日常を愚痴ってると

個人的にメールのやりとりなんかしてる方には

もう映画縛りやめてそっち書いた方がよくね?

と言われるのですが 

 

どーもはずい

 

というわけで

久々にレビュー書きました。

是非お読みください!

 

http://webneo.org/archives/49133

東京国際映画祭『カム・アンド・ゴー』書きました。

2つの映画祭が並走してると

観る方もたいへんです。

 

というわけで、

リム・カーワイ監督『カム・アンド・ゴー』

書きました。

よろしければお読みください。

 

http://webneo.org/archives/48911

 

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ツァイ・ミンリャン『日子』書きました。

フィルメックスで上映された『日子』について書きました。

頭使わない生活してるのでめちゃくちゃ唸りながら書きました……アタマは使わないと退化してしまう……

https://kotocine.blogspot.com/2020/11/text.html?m=1

 

30日まで配信もありますよ!

https://filmex.jp/2020/online2020

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レンタル文化の終わりが近づいてきて。

新宿TSUTAYAが閉店するというニュースを聞いた。

 

Twitterの埋め込みがうまくいかなくてこうなってしまったが

 

私にとって新宿TSUTAYA紀伊國屋書店のトイメンにあった頃以来記憶がアップデートしておらず

先日歌舞伎町のTOHOへ行くときに

 

こっちに来てたのか

とやっと気づいたのだが

時すでにお寿司とはまさにこのことである。

 

そういえばレンタルビデオ文化で育った自分だが 

ohirunemorphine.hatenablog.com

 

VHSから円盤に変わるタイミングで

いつしか家で映画を観なくなってきていた。

今となってはほとんど借りることはない。

それは円盤レンタル店がボコボコ減っていることと無関係ではない。

 

そういえばあの時観たあの映画もう一回観なおしておきたい

と思ったときに

すぐに借りられないのはなんと言うか。

 

レンタルVHSは非常に高額なのに比べて

DVDは比較的安価に手に入るのは確かだが

「所持しておかなければならない」ということであり

あまり物を増やしたくない人間にとってはなんというか。

(レンタル落ち1000円くらいなら買ってしまう自分もいるが)

 

本来なら、映画とは

諸々の権利上「その場限り」の体験であるはずなのだ。

それを考えるとレンタルビデオ(VHS)は長きに渡って法の隙を突き

地方の金のない映画好きをずいぶん育ててくれたと思っている。

 

「レンタルに来たら観るわ」

何度この言葉を口にしたことか。

それほどまでに「レンタルビデオ文化」は映画へのリーチを縮めてくれた。

 

今。

配信がメインとなっているとはいえ。

観たい映画が配信されているとは限らない。

「モノ」として蓄積されている実店舗とは違うのだ。

この辺り「図書館」と「オンラインジャーナル」の関係性に近いものがある。

 

あまり配信は好きではない。

さりとて凄まじい出不精である。

たまにはお世話になる。

 

いうても

今後映画は一期一会くらいの感覚で

しっかと目に焼き付けるくらい

特別な体験として位置付けなければならないのかもしれんなぁ、と思っているのである。

それは「レンタル」なんというもののなかった頃の映画の楽しみ方に近いのかもしれない。

 

時代は変わる。

それでも渋谷TSUTAYA頑張れ。

そして関係者の皆様におかれましては

名画座にかけられる期限等々おありでしょうが

積極的に過去の名作をかけていただきたく

よろしくお願い申し上げます。

『鵞鳥湖の夜』、人生はゲーム。

wildgoose-movie.com

ディアオ・イーナン5年ぶりの新作『鵞鳥湖の夜』。

公開されしばらく経ち、

映画好きがもう散々語り尽くして私如きが書くことはもうないんじゃないか、と思っていました。

ネオンカラーに彩られたフィルム・ノワール

傷ついた男と妖しげな女「ファム・ファタール」。

激しいアクションと鮮烈な画面。

もはやこの映画については語り尽くされているのでは、と思っていました。

 

しかし、私にもちょっと言わせてほしい。

私の話も聞いてほしい。

5分だけでもいい。

 

既に多くの方々が指摘するように、

この作品は「フィルム・ノワール」と呼ばれるジャンル映画の形態を

あえて踏襲しています。

そしてお馴染みの惹句「事実を基にした」!

 

ジャ・ジャンクー罪の手ざわり』(2013)とか

まだ公開未定ですが、昨年のフィルメックスで上映された、ロウ・イエシャドウプレイ』(2018)とか

もうじき公開される、ウェン・ムーイエ『薬の神じゃない!」(2018)とか

「実話を元にした」がめっちゃ多いと思うのよ

また、数々の名作の引用やオマージュと思われる絵作りには、

識者コメントががっつり食いつきまくっています。

私自身、『第三の男』『上海から来た女』『M』さらに『雨月物語』かな、と

その(監督の意図せざるところかもしれない)映画的引用を数えてしまったものです。

 

しかし、そんな「映画史的いいとこ取り」で済ませてはもちろんいけませんよね。

そんな「ナントカカントカを思わせる」で済ませちゃいけませんよね。

 

この作品、前作『薄氷の殺人』(2014)に比べると、かなりエンターテインメントに振り切っており、

画面の派手さと物語のスリリングさにアドレナリン出っ放しだったのですが、

ストレートにわかりやすい物語に反して、人物の相関は「わかりにくい」のです。

私は2度見てやっとなんとなく把握したんですですけどね。

 

私、わりと他人がゲームをしてるところを眺めるの好きなんですよね。

自分がプレイヤーとしてゲームをするのは好きじゃない、というか

めんどくさいんですけど、

他人がゲームをしているのをぼんやり眺めるのが結構好きなんです。

 

この『鵞鳥湖の夜』、まさにゲームの構図なんです。

例えば麻雀とか、ポーカーとか。

他人に手の内を明かさない、しかし捨て牌とかで流れを読む。

 

まず賭けられているのは「30万元」=チョウ・ザーノン。

黒社会のいざこざのなか、間違えて警官を射殺し、賞金首となった男。

 

雨の降りしきる駅で、男と女が出会います。

女は、「あなたが待っている人は来ない。私が代理で来た」と言う

(もうこのシーンだけでがっつり心を掴まれます)。

しばらく駅でふたりの「それぞれの経緯」が語られる。

 

逃走中の彼は、自らにかけられた賞金を、行方知れずの妻シュージュンに託そうと

鵞鳥湖の実力者、ホアに話を通そうとします。

 開発から取り残された、地図にない街。時空の裂け目。警察すら全貌を掴んでいない場所。

シュージュンの弟は、チョウの舎弟。舎弟を通じて、ホアに彼女の居場所を探させようとします。

ホアは愛人アイアイを使ってシュージュンを見つけ出します。

シュージュンとの会話の中、アイアイは彼女を取り囲む監視の目に気づきます。

 

   誰かが鵞鳥湖に入り込んでる。

 

そして、彼女はホアとシュージュンの代理として、駅に来るのです。

 

チョウに30万元の賞金をかけた警察は、私服警官を大量に鵞鳥湖に送り込み、

妻、シュージュンを監視します。

アイアイはシュージュンを警察の目の届かないところに逃がそうとしますが、

シュージュンは……

 

さて。出揃いました。

ゲームのプレイヤーの顔ぶれはこんな感じ。

・獲物 チョウ(30万元)

・チョウがかつていた裏社会の面々

・鵞鳥湖の面々

・妻、シュージュン

・警察(30万元の支払い元)

 

   相関図を書いていたら気が遠くなりました

 

フィルム・ノワール」の伝統に則るならば、

チョウが無事に逃げおおせるということは考えられません。

それぞれの「上がり」を考えてみます。

 チョウは「シュージュンに賞金を渡す。つまり、直接会って、警察に突き出してもらう」。

警察は「自らの手で捕らえる」そうすれば30万元払わなくて済む、というのは私の憶測。

裏社会の面々、そして鵞鳥湖の面々は「チョウを捕まえて警察に売り飛ばす」。

シュージュンは「面倒なことに巻き込まれたくない」。

 

さて。

この作品で「謎めいたファム・ファタール」として位置づけられている、鵞鳥湖の娼婦アイアイは、当初将棋の駒、麻雀の牌、ポーカーのカードでしかありませんでした。

彼女を使うプレイヤーは、ホアとチャン(すぐ死ぬ雑魚なのでどうでもよろしい)

しかし、チョウとシュージュンに関わっていくにつれ、自らもプレイヤーとなっていきます。

 

アイアイはその経緯上、ホア、チョウ、シュージュンそれぞれの動きを見ることができます。

そして、自分たちが監視の元にあることも理解しています。

そんな中、彼女はどのように場を読んでいったか。

 

元々ホアの駒として動けばいくばくかの分け前がもらえるはずでしたが、どうも旗色がおかしくなってきたことを察し、ゲームに参加する流れになったアイアイ。

耳をそばだてれば30万元を巡ってあちこちで諍いが起きていることもわかります。

アイアイの上がりはどこにある?

場当たり的にも思える彼女の打つ手は、しばしば「読み違え」ます。

しかしそうならなければ物語は面白くありません。

 

一旦「売った」チョウが目の前に現れ、アイアイは怯え逃げまわります。

しかし周囲が勝手に自滅し、いつの間にかアイアイは「総取り」できる立場になっていたのです。

そして、彼女は見事に勝ちます。

 

ゲームには「運」も必要です。

彼女が総取りできたのは「運」と「情報」のおかげです。

他の面子が頭悪くドンパチやって自滅するしかなかったのに対し、

彼女は「情報」を持っていたのです。

彼らの間をうまく泳いで、時には読み誤り、さらに潮目を読み、

彼女は、勝ったのです。

 

この作品は非常に派手かつ鮮やかな演出を施されていながら、

説明的な描写は綺麗に削ぎ取られ、

全てを画面から読み取らねばなりません。

非常に疲れる、アタマを使う。

 

はぁぁ、面白かった。

しかし、

 

予告編ってすごくミスリードするよね。

無駄な情感たっぷりな予告編ってどうかと思うんだよね

これじゃチョウとアイアイは恋愛関係に至るように思えちゃうじゃん。

フィルム・ノワール」のパーツとして欠かせない「ファム・ファタール」がアイアイちゃんだって思えちゃうじゃない。

男たちを破滅させる運命の女。アイアイは違うと思う。

チョウとアイアイはもっとドライな関係。船の上でのシーンなんて

 こんな殺伐とした性って

 

まぁアイアイちゃんが野暮ったい水着の下からサッとタバコを取り出して2本咥えて火をつけて、

2人で燻らせるシーンなんてすごくかっこよかったけどね。

 そのタバコがいちいちビニール袋で防水されてるっていう細かさよ

 

ファム・ファタール

どうもアイアイちゃんは違うと思う。

だとしたら、この映画の中でそれは誰?

関わる者を狂わせ破滅させるアレ……

 

30万元! だとするとチョウ本人? オム・ファタール……(自ら破滅を選んだ運命の男)

もしくは

 

結果的にアイアイを利用しゲンナマ30万元を手に入れた

シュージュンかもしれませんな。

 

シスターフッド」そんな単語が思い浮かぶふたりの歩く姿を見つめるカメラ。

 疲れ果てたアイアイを引っぱるように歩いていくシュージュン。

 一瞬顔を見合わせ微笑み合うふたり。

 

こうして映画の骨組みを洗いざらい書いちゃう野暮な私ですが

この作品は絶対「観ないと面白くない」もしくは

「物語より映像」なので

是非劇場で観てほしい。

 

・ビー・ガン『凱里ブルース』『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯へ』をご覧になった方は

 あの前科持ちのおじさんが

 実に不穏な役で登場するのにお気づきでしたでしょう。

 鵞鳥湖と凱里は繋がっているのかもしれません。

 

・リウ警部(リャオ・ファン)とアイアイ(グイ・ルンメイ)は

 前作『薄氷の殺人』(2014)に引き続いての出演ですが

 こっちのグイ・ルンメイちゃんはまさにファム・ファタールと言っても過言ではない。

 幸薄そうで、関わる男はかたっぱしから(略)

 影しかない女。

      舞台が北から南に移るとこんなにも色彩感覚が変わるものなのか

 

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・目を血走らせながら食らう牛肉面……

食って雄弁よね