映画について私が全然知らないいろいろな事柄

@ohirunemorphine が、だらだらと映画についてあれこれ考えます。

『タッチ・ミー・ノット ~ローラと秘密のカウンセリング~』について書きました。 

第68回ベルリン国際映画祭にて金熊賞を獲得した『タッチ・ミー・ノット 〜ローラと秘密のカウンセリング〜 』が、公開されることになりました。

tmn-movie.com

 

今回、コロナウイルスの影響により発令された緊急事態宣言下、

渋谷イメージフォーラムでの公開は7月4日(土)に伸びてしまいましたが、

オンライン配信サービス「仮設の映画館」では6月6日(土)より公開されます。

 

ひと足お先に拝見する機会に恵まれました。

ご鑑賞の一助になれば幸いです。

 

こういうときはこういうキャッチとかすればいいのかな。

まずは観てもらわなきゃならないからね

「強烈! 

 トラウマ抱えた大人たちを癒す刺激。

 フィクションとドキュメンタリーの枠を超え、

 ヨーロッパのセックスセラピー事情を赤裸々に描いた問題作!

 障がい者トランスジェンダーも性をこんなに楽しめるんだ!

 人生、アーティスティックにリベルタンに楽しまなくちゃ!

 さあ自分の殻を破ろうじゃないか! 」    ル・ナンボ誌

 

………………………ココマデ……………………

 

エロティックなビジュアルのこの作品ですが、

むしろ「肉体」に物語らせるものではありません。そしてLGBTQや身体障害者の性についての作品でもありません。

もともと、「マイノリティ」「マジョリティ」とラベリングすることに無理があると考えています。人間は基本的に「個」であり、多数派も少数派もありません。

「個」と「個」として、そのままで完結しているのです。しかし、彼らは「孤独」ではいられません。

この作品は「人と人とが関わり合うことに対する名付け得ない渇望」についての映画なのです。

 

人間、「ありのままの姿」をさらけ出すことは、どんなに難しいことでしょうか。

心の奥底に眠っている名前のつけられない感情を自覚していくということも、大人になってしまってからは難しいことです。

自然に親密な関係を築けるようになるためには、実は幼少時からいくつものステップを踏まなければなりません。感情はその中で得られていくのです。

得ることができなかった、もしくは表出をすることができなかった感情とどう向き合っていくか。

 

ローラ。寝たきりの父の介護で通院する日々ですが、自らが手を出すことはありません。

彼女は介護される父を見つめるだけです。

彼女は「他人との距離感」に非常に敏感でありながら、それに反するように孤独に苛まれる日々を送っていました。

けっして若くはない彼女の孤独を埋めるためには、なにが必要でしょうか? 

彼女は試行錯誤します。

男娼を家に招き入れても、他人と触れ合うことを恐れるため「ただ眺めるのみ」、

インターネットで知ったトランスジェンダーのセラピストのもとを訪れてみたり、

彼女にとっては不快な「触られる」セラピーをあえて受けてみたり。

 

ローラは、病院のガラス越しに、不思議な集団セラピーが行われているのを見ます。

お互いの視線をまっすぐ合わせ、顔を触り合う。

優しく「お互いの領域を侵し合う」行為です。

それをローラは見ます。ガラス越しに眺めるのです。

 

そこでトーマスの存在をを知ります。

トーマスは無毛症。感受性の強い時期にかかった重い病。それがずっと心に刺さったトゲとなり今に至っているようです。

彼はひとりの女性を追っていました。彼女の試着した服、唇がつけられたカップ。彼女の行動をそっくりそのままなぞる彼。彼の思いは届きません。

 

ローラは、ガラス越しに見たトーマスに興味を抱き、彼の後をついて歩きます。

この行為によって、視点はさらに重層的なものになってきます。

誰かを見つめる視線、それを見つめる視線。ガラス越しの観察。

ダイレクトに核心に迫ろうとしないこの構造は、そっくりそのまま「他者と関わることへの幾重の隔たり」、複雑で重層的な視線によって織りなされる物語をあらわしていると考えられます。

 

切ない想いを抱えるトーマスと対照的な存在として、もうひとりの男性、クリスチャンがいます。

彼は「全てを晒して生きる」ことしかできません。身体を意のままに動かすことが困難であるため、常に他者と共にあらねばならないのです。

そして、愛する人と共に生き、自らの「今」を、そして肉体を享受し尽くすことを躊躇いません。

他者との距離感が溶け合う「親密な」関係を深く知る人と、親密であることを欲しながら躊躇う人。

 

「精神的な核」を覆うように無意識があり、意識があり、肉体があり、その肉体を覆う「服」という殻がある。ローラの抱える問題はどこまで殻を剥ぎ取れば解決の糸口が見つかるのでしょうか。

男娼はローラが見ている前で全て脱ぎ去ります。彼女はそれを眺めます。

トランスジェンダーのセラピスト、ハンナもまたローラの前で1枚ずつ服を脱ぎ、最後に「これが全て」と言います。

触れられたくない部分に触れられ、ローラは叫び声をあげ、涙を流します。その涙は拭われ、舐められる。

服に覆われた肉体。あえて他者に晒すことはない涙や唾液、体液。そして、痛み。痛みに対して湧き上がる感情。幾重にも重なった殻の内部で、さまざまなものが揺れます。他者を欲する感情かもしれませんし、「自ら説明できない」感情かもしれません。

 

涙、唾液、体液。

他者の肉体の、最も底から溢れるものを受け入れる。生理的抵抗を感じる行為、実際極めて危険な行為です。

その危険に身の全てを晒し、委ねることを躊躇わない。自らを知る者は、他者を受け入れることも知るのかもしれません。

それを「信頼」と呼ぶのか。欲望ありきの信頼か。いずれ、危険な「性の冒険」を共に行うためには、信頼関係は必要です。

 

ローラと、トーマスは、似た悩みを共有するもの同士だったのでしょう。

幼少期に「親密さ」という概念を得ることができなかった。

愛、あるいは親密さというものがなんであるか、学ぶべき時に学べないまま大人になった。

ふたりがそれぞれ「親密さ」について学習してきた過程を表すように、互いの服は取り去られ、

心をえぐった傷を語り合い……そして「触れ合い」。

ーー親密さ、愛着、それらの感情を得ることを欲しつつ方法がわからなかった彼らにとって、「エロティシズム」はひとつの解決の方向。

それぞれの分厚い殻を剥がしていく。

「服を脱ぐ」という行為はその象徴なのです。

 

実は彼らの行為を一部始終観察していたもうひとつの視点があります。

監督のアディナが、カメラ越しに彼らの行動を見つめているのです。

誰かを見つめる視線、それを観察する視線、それをガラス越しに観察するカメラ、そのカメラの奥にいる監督の視線。構造はより複雑なものとなりますが、結構このカメラ、ドスンと据付けられ、それ自体が現実と虚構を溶かす装置として存在します。

そして、アディナとローラの関係。

ローラと、この作品の監督アディナが語り合う場面がしばしばあらわれますが、このふたりが話す声が「どちらがどちらのものか」判然としないのです。

全てを見つめる者が、物語に介入してきます。なぜでしょう? 

 

アディナは「知っている」つもりでいました。

しかし、「知っている」ということは極めて個人的な感覚です。それを疑うところから、この作品は始まったのかもしれません。

人はあらかじめ異なった「世界」を生きています。それぞれに完結し、欠落を感じている者はそれを埋めようともがき、答えを出していこうとする。

すでに答えを得た人は、答えが出ない人に求められれば、助けようと手を差し伸べる。

アディナはその過程を観察し、この作品を作り上げました。それは自らの内の「世界」を再構築する作業だったのかもしれません。ローラとアディナ、もしくはトーマスの、境界線を溶かしつつ。

 

「個」としてのみ在る人は、自らの欠落をうまく説明できません。欠落は、他者との関係性、自己と他者の差異に気づかなければ自覚できないのです。

「親密さ」「愛」について欠落した人々がそのことに気づき、殻を割ろうとするとき、エロティシズムは彼らの関係性を導く方向性のひとつなのです。

 

この作品は見る人によってどのようにも観え方が変わるだろうと感じました。

どうぞ、ご覧になって、いくつもの視点をお楽しみください。

 

『タッチ・ミー・ノット ~ローラと秘密のカウンセリング~ 』

原題 : TOUCH ME NOT

2018年/125分/英語/ルーマニア、ドイツ、チェコブルガリア、フランス

 

監督・脚本・編集 : アディナ・ピンティリエ

キャスト :  ローラ・ベンソン

     トーマス・レマルキス

     クリスチャン・バイエルライン

     グリット・ウーレマン 

     アディナ・ピンティリエ

     ハンナ・ホフマン

     シーニー・ラブ

     イルメナ・チチコワ

 

配給・宣伝 : ニコニコフィルム

配給後援 : 在日ルーマニア大使館