(余計な追記あり)「らしさ」ってなんだろう、もしくは拭いがたい「男らしさ(あるいは「男らしくなさ」)」への視線について。
やっと……
やっと……
夏の暑さが一段落しました。
おひさしぶりです
前回の記事のあと
仕事のしんどさと
しんどい仕事が終わってから観る映画と(ええ、交通費を浮かせるためですとも)
そうこうしているうちに気圧だるが本気出してきて
お日様全然拝めずひと月くらい梅雨の湿気に悶え苦しみ
普段より2週間伸びた現場で燃え尽きてそのまま寝込み
次の夏の繁忙期がきた頃には
あんなに寒かった7月が嘘のような猛暑に見舞われ
完全にバテておりました。
私は一種の中毒なので、ちょいちょい挟まるまとまった休みがあっても、
ついついこいつのせいで休日ふいにしてしまうのです。
人間をダメにする飲み物です。
さて。
珍しくシラフで過ごしていたある日。
こんな記事を見かけました。
この記事を読んで、
私の脳内に数本の映画がパパパっと思い浮かんだのであります。
「あら男の子がそんなもの好きなのうふふ」と言われがちなテーマについては
最近少々思うところがあったのです。
ジル・ルルーシュ『シンク・オア・スイム イチかバチか俺たちの夢』(2018)と、
ジェイムス・エルスキン『氷上の王、ジョン・カリー』(2018)です。
かたやベタベタのフランス産コメディ、それでいてかなり「フランスの社会問題」を扱った作品。
かたや複雑なめんどくさい性格の、しかし「芸術」に対しては信念を曲げることを毛ほども考えない、インスブルック五輪金メダリストの生涯。
随分毛色の違う作品かもしれません。
しかし、この2本、ある共通した問題を内包しているんです。
「アートとスポーツ」に対して向けられる視線と言うものについて。
言うまでもありません。
ジョージ王子が学ぶ「めずらしい学習科目」ゆうても「彼らなしでは」まともにカンパニーは存在しえません。
彼らなしの「白鳥の湖」やったら逆トロカデロ・デ・モンテカルロバレエ団ですわな。
とりあえず身近なところで熊川哲也に謝ろうか。意味はないけど。
バレエものの映画ってめっちゃたくさんあるんですよね。
最近だと『ホワイト・クロウ 伝説のダンサー』(2018)とか。
『ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣』(2016)とか。
上の記事っぽいかなぁ、と思ったのは『リトル・ダンサー』(2000)。
しかしながらわたくしはバレエに特に興味はありません。
よって 観ていません。どれもこれも。
むしろスノッブな「私バレエ詳しいんです」と言うお方には全力でパイを投げつけたいくらい嫌いです。どうしてでしょう。舞台やお芸術にじゃぶじゃぶとお金つぎ込んでいるパトローネ気質の御仁の足元にピアノ線張りたいと言うこのねじくれ曲がった根性。たぶんお高い観劇代をポンポン出せるブルジョワに嫉妬スピンしてるだけです。
ともあれ興味がないものは仕方ありません。
だから、「あくまでも私が観た作品」についてちょっと思うところを述べてみたいと思います。
例えばだ。
ジョン・カリーは「バレエをやりたい」といって親に反対され、フィギュアスケートを選ぶ。
当時の男子フィギュアスケートってかなりパワー系チカラ自慢系なところがあったらしく、彼はその中で「いかにフィギュアスケートを芸術に高めていくか」に注力していく。
そして、親に反対を喰らった理由は「バレエは男らしくない」……
男が優雅に踊るというのは「みっともない」ことだったらしいのです。
例えばだ。
「男子シンクロナイズドスイミング」(今は「アーティスティックスイミング」と呼ばれてるらしいね)については、私たちは『ウォーターボーイズ』(2001)ですっかり慣らされてるよね。
妻夫木やら玉木やらの若きイケメンどもとは異なる、どうみてもトドやコグマを連想させるフランスのおっさん達が、それぞれの問題を抱えつつシンクロ世界選手権を目指し奮闘する姿を見てクスクス笑っていただけだったのだが。
ただ一箇所、カメラがパンする間に映された壁の落書きにギョッとする。うろ覚えなのでまちがっていたらすまぬ。
「シンクロオカマどもめ」そんな感じの落書き。画像が見つからなかったのでこんな感じ。わずか1秒くらいのカット。けど、「まだ「踊る男たち」についてこんなヘイトぶちかまされるんだ」という。このカットぶち込んだ監督すごいな。
まぁ「男らしさ」という言葉に随分翻弄されたジョン・カリーは実際に同性愛者であり、成績が上がっていくにつれ、どんどん頼んでもいないのにアウティングにさらされてしまう訳です。
まぁこんな映画がこさえられること自体アウティングで余計なお世話なのかもしれんのですが。寂しがり屋なパリピで、しょっちゅう相手をコロコロ変え、しまいにはカンパニーひとつが同じ病気で壊滅してるってそれって()とまぁ考えてしまう訳ですよゲスなわたくしとしては。
この映画は、とある世界選手権銀メダリストのガチヲタ勢が後押しして公開に至ったという作品ですが、彼がカリーの「芸術上の葛藤」にフォーカスを当てようとしていたのは
この映画そのものは、カリーの理想とする「芸術」と同じくらい「彼のセクシャリティ」にフォーカスが当てられているからなんじゃないかな、と思う訳です。
それはそれで一つの事実。「男らしさ」という言葉にあんなに反発していた彼が、「男らしさの極み」のような演技を見せるんですよ。私はあれを思い出しましたね、
ヅカの男役
「それになりきる」技術ですよ。
「どういう魅せ方が男らしく見えるか」の研究の結果なんだろうなと思います。
幸か不幸か私は女に生まれてしまったので、「女らしくない」とか「女であること」についてあんまり真剣に考えてこなかったんですよ。
もっと真剣に考えていたなら今頃人生変わっていたでしょうね。あまりに無頓着であるがゆえに私を「女の子が好きな女の子」だと思い込んでいた人も結構いたらしいですね。それもまた「そういうふうに生きている女って」という偏見ですよ。
流石にこの歳になるとただの難あり売れ残りババアとしか……と苦笑いとともに口走る程度に「女の年齢」については実際に散々痛い目に遭っていますので考えざるを得ないですが。
その辺りは昔の日本映画ってすごく残酷で、もう30過ぎたら逝き遅れの大年増、家庭におさまっていなければ真っ当な生活を営めない、そんなイタい描写ゴロゴロ出てきますからね。観るけどね。観て「価値観……(略」と思う訳ですよ。
もっとも。
ジョン・カリーが生まれたのは1949年、死んだのは1994年。
先ほどご覧に入れた「ジョージ王子がバレエを習いたがってるんですってクスクス」な記事は2019年。
令和のお話ですよ!元号の概念ないだろうけど!
「こうあるべき」という意識ってすっごく保守的で変えられないのかもしれませんね。
それは長い間葛藤にさらされ続けている人々がいるっていうこととイコールです。
ちなみにさっきwiki眺めていたら、
「ジョン・カリーを看取ったのはアラン・ベイツ」という記述があり
まぢかすげぇぇぇ
と思った次第。
『ザ・シャウト さまよえる幻響』(1978)
の怪演がどうしても忘れられない。交友があったんだ……
追記(翌日早朝)
ところである程度スケート見ていると、「採点基準」という言葉をよく聞きます。
ジョン・カリー自身「採点競技は政治である」とおっしゃっていますし、カリーの直系とも言えるジョニー・ウィアー氏もかつてそんなことおっしゃっていたことが。
デリケートなんですよ、採点競技って。
ちょっと表を貼ろうかと思ったのですが、浅田真央ちゃんの表は諸々議論のタネなので、有無を言わさぬコレをご覧ください。
かように、読める人には読める採点表(その裏側も読めちゃったりする)があるわけです。
そこで野暮な疑問が……
シンクロ世界選手権でフランスのコグマチームがあの結果を出せたのは…なぜ?
ここはちょっと納得しかねる。
ちゃんとアーティスティックスポーツの選手権ならばだ。採点基準はあるんだろうな?
エアギター世界選手権とかメタル手編み選手権とかあるんだから野暮抜かすな、とも。
しかし。
そんな飛び道具的選手権と同じように考えてしまったら、
男子シンクロをイロモノ扱いしてるっていうことではないのでしょうか?
考えすぎ?