映画について私が全然知らないいろいろな事柄

更新がとまっていますが @ohirunemorphine が、だらだらと映画についてあれこれ考えます。

(クーリンチェちょっと中断)シュミットと、ワイダと、玉三郎。

クーリンチェにまつわる話を書くべきなんだけど、

ちょっと仕事が忙しくて続きがなかなか。

 

その代わりといってはなんですが、

「同人誌」に載せようかとしている文章の草稿を、よろしければお読みください。

 

歌舞伎の名女方と、ヨーロッパの名匠2名のコラボレーションについての、

ちょっとした考察です。

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その端正な顔立ちの紳士は、軽口を叩きながら化粧前に座った。

 

 眉を拭き取る。

「こんな顔になりましたが、怪しいものではありません」この人25年前から同じ冗談を言っている。

 鬢付け油を手のひらで温めてよく伸ばし、顔に擦り込む。

 羽二重を頭に被る。この時のコツは鬘の重みで目が下がるので、少し持ち上げるように紐を巻くそうだ。

 すっと目尻が釣り上がる。あっ、と思った。この人の普段の顔が、そこにあった。

 

 白粉を刷毛で塗り、首筋にも器用に塗り、目元に紅をぼかす。目張りを入れる。眉を描く。紅を塗る。鬘を被る。

 気づくと、先ほどまで紋付袴で低音の滑らかな声を聞かせていた紳士が、美しい娘になってそこに佇んでいる。

 その場の空気が歪んだ気がした。ぐらりとしためまいにも似た感覚であった。

 

 そして、その不思議な感覚の理由が、化粧前の造りのせいであることにも気づいた。

 彼は「こちらを向いて」顔をする。化粧前が我々を隔てる。しかし、我々は「化粧前を通して」彼が男の顔から娘の顔になっていく様を観賞する。これは実に不思議な感覚であった。

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 長年贔屓にしている市川笑也丈のトークショーでの一コマである。国立劇場の歌舞伎俳優研修生から花形役者へと異例の出世を遂げた人気女形である。

 彼は背が高い。そのため、体の動かし方に様々な工夫を凝らし、女性を演じているのだそうだ。例えば立役に近づく時の身長の盗み方。観客から美しく見えても、横や後ろから見ればかなり不格好な姿勢であるらしい。女という字はくノ一と書く。両肩を後ろにそらし、落とすとなで肩に見える。そして片方の肩を後ろに引き、正面から見て「く」が見えるように立つと女に見えるという。また、町娘、御殿女中、赤姫、芸者、傾城、中年女性、老婆それぞれを表す様々な約束事がある。彼は一つ一つ演じ分けてみせた。同じ衣装でも不思議なことにきちんとそのように見える。

 歌舞伎や日舞には衣装や化粧を一切せず全員が紋服で踊る「素踊り」がある。女形も立役も色こそ違え同じ衣装である。しかし、女形の役者は女に見え、立役はそれらしく雄大に見える。

 ここで男女を区別するのは「型」である。身のこなしだけで観る者に全てを理解させるということは、観る者との間に共通の決めごと、無意識に共有された決めごとがあるということである。

つまり型とは「記号」と言い換えることも可能であろう。

 

 現在、歌舞伎の女形の中でも別格の存在として、坂東玉三郎が挙げられる。説明するまでもなく偉大な立女形であり、舞踊家である。彼に魅了され、映画の主演に迎えた海外の監督たちがいる。玉三郎は、歌舞伎というある意味特殊な演劇の形態を、どのように彼らの映画に刻んだのか。

 まず、アンジェイ・ワイダ『ナスターシャ』(1994)である。

 

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 冒頭場面では、玉三郎演じるムイシュキン公爵とナスターシャが同一画面に現れる。ムイシュキン公爵は眼鏡をかけた病弱そうな青年としてそこに佇み、ナスターシャはヴェールのついた帽子を被った美女である。二人の顔が同時に映ることはない。

 ムイシュキン公爵は穏やかな人物ではあるが、持病があり、神経質な表情、引きつったような動きで演じられる。永島敏行演じるラゴージンとの会話がしばらく続き、ラゴージンがナスターシャと出会った経緯を語る時、「変身」あるいは「転換」が行われる。

 ラゴージンが耳飾りをナスターシャに贈る。その時ナスターシャとしてそこに居るのは先ほどまでムイシュキン公爵としてラゴージンと対峙していた玉三郎その人である。眼鏡を外し、ショールを羽織るとそこに居るのは美しい女性。小道具以外はなにひとつ変えてはいない。身のこなしと口調、視線のみが変化し、しかし、それがすべてだ。

 公爵の衣服の上から羽織ったショール。耳飾り。それまでの引きつったような口調と動作が、一転して優雅な女性のそれに変わる。ここで重要なことは「重み」である。歌舞伎において、地位の高い女性の動きは「重さ」で表現されるのである。

 ナスターシャのもう一つの特徴、「高慢さ」を表す動きとしては、身につけていた耳飾りを投げつけ、高笑いをし、纏っていたショールを丸めて椅子に放り投げる。これはむしろ傾城の動きに近い。それら小道具を外したのち、玉三郎は眼鏡をかけ、ムイシュキン公爵に戻る。

 ラゴージンとナスターシャ、あるいはラゴージンと公爵、舞台に現れるのは常に二人である。ナスターシャはショールと高笑いを残しカーテンの向こうへ消えてゆき、入れ替わるように現れるのは眼鏡をかけた公爵である。

 ここでこの「演じ分け」について考えてみる。

 両性具有という概念がある。しかし、ここで求められているのは「両性をともに備え」そして「両性を分けて」演じることである。この両方を兼ね備えている存在はそうはいるまい。歌舞伎の俳優は、まず前提として男性であり、その上で「男性」「女性」を演じ分ける。主に女形を演じる俳優も、時に立役を演じることもあり、劇中で女性が実は男性だったと判明する作品もある。

 先ほども述べたように、歌舞伎は役により、演技に細かい「型」がある。

 男性が男女両性を演じる歌舞伎において、「男らしさ」「女らしさ」というものは徹底して観察され、理想化され、長い時間をかけて抽出された「記号」が「型」である。例えば、美しい娘が、ある一つの動作で自分は男性であると明かす、そこからはもう「女の姿をした若い男性」にしか見えなくなる、という芝居。これも「娘」という「型」から外れた所作、同時に「若い小悪党」としての「型」に則った所作をとることによる。この役の見せ方は役者それぞれだが、まず先に「型」があり、その上で役者の個性や工夫が見せられるということは共通している。

 また、「眼鏡」「ショール」「耳飾り」などの小道具について。二役の演じ分けをショールを使って行うというアイディアを出したのは、玉三郎からであったそうだ。ショールに包まれた玉三郎は、よく知られた姿、美しく装った「彼」の姿を抽象的にあらわし、扇をゆるやかに操る様は舞台で舞う「彼」を思わせる。しかしここでの彼は紛れもなく男性であり、眼鏡をかけることによって女性としての回路を切る。小道具によって、俳優の演技が切り替わる。どう見ても男性である玉三郎がショールを羽織るだけで、そこに美しい女性を見出すことができるのは、観るものがそれら小道具を纏った彼の動きの奥にある「記号」というものを共有しているからであろうか?

 これは非常なハイコンテクストである。「そのようなもの」という認識が観る者の内にそもそもなければ、ここにいるのは布に包まれたただの男性である。冒頭と終盤にその姿をあらわし、劇中でも写真としてそこに佇む「ナスターシャ」は、「女形」としての玉三郎を視覚的に見せないと難解に過ぎるための説明にも思える。この作品は歌舞伎のエッセンスを抽象的かつ的確に用いているが、それは大いにコンテクストに依存するものだからである。

 

 そして、続いてダニエル・シュミット『書かれた顔』(1995)である。

www.youtube.com

 劇映画として演出を凝らした『ナスターシャ』とは異なり、この作品に登場する多くの人物は役者として、芸者として、舞踊家として、「女性としてあらまほしき姿」という理想を生きた、実在の老いたる女性たちである。そして、その中心に、「女性の理想の姿」を自ら追求する男性として、玉三郎が据えられる。

 「女」として見られるということはどういうことなのか?そこには観察があり、評価がある(それは「男」として見られるということと同様に)。おおむねの人間は「理想とされる姿」つまり「記号」から逸脱している。それを客観的に受け止め、さて自分の中で使える部分はどこか、ということを探すことにより、理想に近づこうとする、そしてその道を突き詰めた者が、彼女たち--杉村春子、武原はん、蔦清小松朝じ、などの各氏--たちが代表する女性たちである。常に「女」として人前にさらされ続けた彼女たちは、女としての「記号」を具現化し、一生をかけて追求した「求道者」であるといえよう。

 

 玉三郎は、「男」として「女」を演じることについて、こう語っている。

「自分は、男の気持ち、男の目でもって、女を演じてきたっていうことは、男の画家が女を描くのと同じように、女形を演じてきた」と。※1

 この作品で取り上げられた女性たち、つまり玉三郎が影響を受けた女性たちは「理想の女性」との姿から離れた部分があった。しかし、そのハンデがあったからこそ、客観的な目で自分自身を見つめることができた、と。どこが欠点なのか。それを作品としてどのように表現するか。玉三郎自身は、そもそも自分が男性であることが「女」を演じる上での基盤であり、またリスクであると語る。

 しかし、杉村春子はこのようなことも語っている。

「子供の頃から芝居を見にいってましたけれど、その時分は女優さんっていうのはあまりいなかったんです。歌舞伎も、新派もほとんど男の方だったので、女形というものに、何か特殊なものだという感じはあまりないんですね。」※2

「(新派の女形花柳章太郎との交流について)男が女になるっていうので、女が女を観察するより、ずっと細かい観察をしている。男の目で見た女ですね。だから、女が気がつかないような、いろんなことが女形さんにはできるんじゃないですか。」※3

 大女優自ら、手本は女形であると語っている。男性によって、長い間に培われた「女という記号」に則って演じられる女性が、女優としての演技の原点。

 この円環構造、あるいは境界の曖昧さ。

 

 『書かれた顔』劇中劇として挿入される「黄昏芸者情話」は、年増の芸者と、二人の男性によって演じられる恋の鞘当ての物語である。それは男性3人による場面だと気づかないほどリアルである。玉三郎は「型」を巧みに駆使して女性を演じる。性別などというものがいかに曖昧であるか。『ナスターシャ』における抽象性と『書かれた顔』で具体的に表現されたものは、逆のアプローチから出発し、そして「型」あるいは「記号」の積み重ねによるものであるという点でここに一致する。

「記号」を積み重ねると「具象」になり得るのである。デジタル時計の秒針はコマのように切り替わるが、仮にこれが究極まで細かくなると、それはあたかもアナログ時計の滑らかに動く秒針と変わらないものになることだろう。

 

 男性と女性を隔てるものはなにか。「それは本人の選択による」としか言えない。ここで描かれた女性たちは「女」であるという自覚をもって女を演じ、「男」であるという自覚をもって男を演じる。ときにそれは一人の人物の中で。

 自らを客観視することを義務付けられた者は、様々な記号--型を操って、「そのもの」になる。長い間に培われたコンテクストを自在に操ることにより、「そのもの」になる。

 実は、それは彼らのような至芸を身につけた者に限らないのではないか?

 我々もそれらの型に「囚われている」のではないか?

 

『ナスターシャ』(Nastasja / 日本・ポーランド / 1994 / 99分 )

 監督 アンジェイ・ワイダ

 出演 坂東玉三郎 永島敏行

 

『書かれた顔』(The Written Face / 日本・スイス / 1995 / 89分

 監督 ダニエル・シュミット

 出演 坂東玉三郎 武原はん 杉村春子 大野一雄 蔦清小松朝じ 

    坂東弥十郎 宍戸開 永澤俊矢

 配給 ユーロスペース

 

※1『書かれた顔』パンフレット(ユーロスペース, 1996)p.16.

※2  同上 p.10.

※3  同上 p.10.

 

参考HP

五代目坂東玉三郎オフィシャルサイトより 

坂東玉三郎【公式サイト】

 

その他、歌舞伎解説書やシェークスピア等海外の女方に関する文献、あるいはインドの「ヒジュラ」などの解説にもお世話になりました。