『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』公開まで、そしてその後のいろいろなことなど。 その1
私が昔携わっていた分野には、「灰色文献」や「孤児文献」といったものがありました。
灰色文献とはこのようなもの。
孤児文献とはこのようなもの。
「権利がどこにあるのかはわかっているのだけれども入手困難な文献」
「そのものがどこにあるのかは明確なのだが権利がどこにあるかわからないため2次利用が困難な文献」
といった違いがありますが、
どうやら映画の世界にもそういったものはあるようです。
こちらの記事をお読みください。
この記事中にもありますが、「日本での上映権がどこにあるかわからなかったので上映ができなかった」作品なんだそうですね。
ごく最近でもこう言った権利関係が曖昧な作品があるということに驚きました。適当すぎるだろ!
と、ここまでが前置きなのです。長いよ。今回のシリーズは長いよ。
今年の春先に25年ぶりの再上映がなされ、今なおロングランを続けている
『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』。
漢字が出てこないのでコピペしているがもう面倒なのでカタカナ表記で行くよ。
今年のロードショーに先駆けて昨年東京国際映画祭で先行上映がありました。ご覧になった方々、多いのではないでしょうか?
そしてチケット販売の際わずか15分程度で鯖落ちして大迷惑を被った方々も多くいらっしゃるのではないでしょうか
観ました。視覚的にも、心理的にも、光と影の織りなす美しいコントラストが非常に記憶に残る、控えめに言っても大傑作、4時間の長尺が苦にならない恐ろしいほどの大傑作と言って過言ではないでしょう。
この作品を語る前に、個人的には7年にわたる、浮いては沈み、ボコッと湧いては消える「この作品を上映するというデマあるいはちょっとした騒ぎ」があったことを、ここに記録しておきたいと思います。
だから長いって申し上げましたのに。誰も読んでいないと思って好き放題書きますわよ。
ほとんど記憶のみで書きますので間違いがあったらご指摘くださいね。
キリがいいので一旦ここでひと休み。